神渡: 正犯行為がなくても結果との間に因果関係があれば共犯処罰が可能との「純粋惹起説」だと、「共犯独立性説」と同じような気がしますが・・・
流相: あ~、たしかに!
「純粋惹起説」も「共犯独立性説」もどちらも、共犯者にとっては他人である正犯者の行為ではなく、共犯行為自体に共犯の処罰根拠を求めるわけだからねぇ。
阪奈: でも、「共犯独立性説」だと、共犯者の「悪しき意思」が処罰根拠だから、その「悪しき意思」の発現行為である共犯行為があれば共犯処罰は可能だけど、「純粋惹起説」はそうではないわよね?流相。
流相: ん?
あぁ~、そうか!そうだね。
「純粋惹起説」だと、共犯行為だけではなく、法益侵害という結果の発生と、その結果と共犯行為の因果関係が必要となるんだった!
阪奈: そうなのよ。だから、全然違うの!
「純粋惹起説」からは、
(1)共犯行為(行為)
(2)法益侵害(結果)
(3)共犯行為→結果(因果関係)
阪奈:が必要なわけ。
「共犯独立性説」からだと、(1)共犯行為(行為)だけで共犯処罰は十分となるわね。
神渡: なるほど!
さすが阪奈さん。凄い!
ん?でも・・・
流相: どうしたんだい、神渡さん。
分からないことがあったら、僕にも聞いて!
神渡: ありがとう、流相君。
「純粋惹起説」は正犯行為を軽視するということなのだけど、もし正犯行為を不要とすると、「純粋惹起説」は、共犯処罰の場面を共犯行為から直接結果が生じた場面に限定して考えているのかしら?
流相: そうじゃないかな?
「純粋惹起説」は「正犯なき共犯」を認めることになってしまって妥当ではない、と批判されているからね。
神渡: たしかにその批判は聞いたことがあるのだけれど、「正犯なき」ってどういう意味なのかしら?
本当に、共犯者と結果との間に、なんの行為も介在しないとすると
共犯行為→結果
神渡:ということになりそうなのよね。
流相: それで何かまずいのかい?
神渡: 「共犯行為」というのは、「実行行為」ではないのよね?
流相: そうだね。
神渡: 何故、実行行為ではない「共犯行為」を処罰することができるのかしら?
流相: え?
だからそれは、共犯行為が結果を因果的に惹起したから・・・
神渡: そうすると、「共犯行為」も「正犯行為」もともに結果を因果的に惹起する行為として類型的な差がなくなるのではないかしら?
流相: う~ん・・・
---次回へ続く---