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開講
神渡: このロビーって、話をするには最適な場所ね。
ふかふかなソファーが4つもあって、何時間でも座っていられるもの。それに静かだしね。
そうそう、そういえば、『判例分析講座』がいよいよ始まるわね!
阪奈: そうね。各科目の先生方が専門分野の法律(法)の判例を分析する講座ね。
神渡: 楽しみ!
阪奈: うん。
あっ、流相が・・・
流相: やぁ、神渡さん!
今日も元気そうで。
神渡: 流相君、どうしたの?
重そうな本を持って。
流相: ああ~、これは判例集だよ。
神渡: こんな書籍見たことないわ。
流相: 最高裁判所がまとめている判例集だからね。
僕たち受験生はめったに見ない代物だね。
阪奈: なんで流相がそんな書籍を持っているのよ?
流相: いや、刑法の玄人先生にちょっと頼まれてね。
今度始まる『判例分析講座』の参考資料らしい。
阪奈: まさか、私たちにも読ませるつもりなのかしら?
流相: そこまでは言っていなかったけど・・・
阪奈: 玄人先生のことだから分からないわねぇ。
流相: まぁ、それは講座の中で言ってくれるでしょ。
少なくとも僕たちは『判例百選』は読む必要があるよな。
でも、“百選”って言いながら100以上あるから勉強するのが大変なんだよなぁ・・・
他にも勉強することがあるのにさぁ・・・。
神渡: えっ?
でも私たちは実務家になりたいわけだから、まずは判例の勉強からするのじゃないかしら?
阪奈: そうよ!
実務の世界では、学説がなんて言っていようと、判例が基準よ!
実務界では、判例が羅針盤なのよ!!
流相: そうなんだろうけどさ、
でも実務家が判例を分析した本ってあまりないじゃないか!
『判例百選』だって学者が解説しているのが多いしさ。
実務では判例が基準だ!
って言うんなら実務家が率先して判例分析をすべきじゃないの?
阪奈: 正論だけど、実務家は日々の仕事で忙しいのよ。
無茶言わないで・・・。
そこら辺の疑問を解決するために
「判例分析講座」が開講するんだから、疑問は先生方にすれば良いのよ。
学者の先生だって実務家の判例分析の仕方を知っているでしょうから。そうじゃないと、判例を批判することなんて出来ないわけだし。
流相: それはそうだな。
疑問点はこの講座で解決するか!
じゃ、神渡さん、またまた一緒に頑張ろうね!
阪奈: (コイツ、いつの間に神渡さんの隣に座ってんの<怒>)
総論
“判例”とは?
上場: さて、今日からこの講義室で、『判例分析講座』が始まります。
今日は、“判例分析の総論”
と題して第1回目の講義を始めたいと思います。
私は、元裁判官の上場(うぇーばー)です。
宜しくお願いします。
流相: お願いしま~す。
阪奈: お願いします。
神渡: お願いします!
上場: さて、早速ですが、
“判例”
とは何でしょうか?
流相: 裁判所の判断のことですよね?
上場: 広い意味ではそうですね。
ただ、通常、“判例”というと、具体的事案に対する最高裁判所の法的判断のことを言います。
流相: 下級裁判所の法的判断は何というのですか?
上場: “裁判例”というのが通常の用法ですね。
この講座でも、
“判例”=最高裁判所の法的判断
“裁判例”=下級裁判所の法的判断
というふうに使っていきますので、気をつけてください。
さて、“判例”はどの部分が判例と扱われるのでしょうか?
阪奈: それは、結論を導くに至った一般的な命題を言うと思います。
流相: うわっ、難しい言い回しですねぇ・・・。
上場: 何が“判例”であるかについては、実は議論がありまして、
「結論命題だけを判例とみる立場と、裁判理由の中に書かれた一般的法命題をも判例と考える立場との対立」(中野次雄編『判例とその読み方 改訂版』(有斐閣、2002年)64頁~65頁)
があります。なお、この本は、第3版が出されております。
ただ、通常は「裁判理由の中に書かれた一般的法命題をも判例と考える立場」が多いかと思うので、この講座でもそういう立場に立って判例を分析していこうと思います。
流相: (へぇ~、そういう議論もあるんだ!知らなかった)
上場: 判例分析で気をつけなければならない点は、判例は具体的事案に対する(最高)裁判所の法的判断という点です。
つまり、(最高)裁判所の法的判断が具体的事案に対して下されているという点です。
流相: ??
それは分かりますが、それが何か判例分析に重要な違いをもたらすんでしょうか?
上場: もたらします!
“判例の射程”
の理解に関わってきます。
神渡: “判例の射程”
ですか・・・。
上場: 判例分析で一番重要なのは、“判例の射程”の理解です。
実務家は日々、“判例の射程”を意識して仕事をしているのです。
裁判官だけではなく、検察官も弁護士もそうです。
皆さんも実務家になるわけですから、“判例の射程”を理解することがとても重要になります。
上場: そもそも
“判例の射程”
とは何でしょうか?
“判例の射程”とは?
上場: 一般論として言いますと、
「裁判理由の中に書かれた一般的法命題」
が妥当するのはどの範囲か?
ということです。
具体的な分析については、各先生が担当される講座で勉強して欲しいですが、ここでは一例をあげてみましょう。
民法で、担保物権の物上代位の理解を巡っては
・特定性維持説
・優先権保全説
・第三債務者保護説
で争いがありますね。
判例は、
先取特権では特定性維持説と優先権保全説を合わせた理解をしています(昭和60年7月19日)が、
抵当権では第三債務者保護説に立っています(平成10年1月30日)。
これは、先取特権の場合の物上代位の理解が抵当権の物上代位の理解には及ばないこと、
つまり、先取特権の物上代位についての最高裁の判断の射程が抵当権の物上代位の構造理解には及ばないことを意味します。
単に、物上代位の構造は?
という頭ではこの2つの判例の違いを理解することは出来ません。
“判例の射程”に気をつける必要があります。
流相: (そうだったのかぁ~)
神渡: 学説の考え方とは発想が違う気がします。
上場: そうです。違います。
判例は、個別具体的な事案の解決が目的ですから一般的な理論の定立にはあまり関心を持ちません。
が、学説はあらゆる事案を想定した一般的な理論の定立に関心を持つ傾向にありますからね。
この考え方の違いはとても重要です。
ここを押さえておかないと、判例を理解することはできなくなります。
判例を理解できないということは、実務家として仕事をすることができない、ということを意味しますので要注意です。
神渡: 判例の理解は難しそうですね。
“判例の射程”ですかぁ・・・。
上場: でも、司法試験では、そこまでぎりぎりと“判例の射程”を聞く問題は出しにくいでしょうね。
かなり難易度が高くなりますから。
試験的には、既存の判例の規範部分を使いこなせるかを問う問題が出てくることが多いですね。
流相: では、そんなに“判例の射程”を気にする必要はないですか?
阪奈: (何を言ってんだか・・・)
上場: いや、それは違いますよ、流相君!
判例を勉強するときは、常に“判例の射程”を意識しておかないといけないんです。
なぜなら、“判例の射程”を分析するということは、具体的事案をしっかりと分析するということだからです。
流相: ??
上場: 世の中には、全く同じ事件というものはありません。
そうすると、個別の事件毎に解決が異なってくるのか?というと、そうでもありません。
全く同じ事件はありませんが、公平の観点から、同じように解決すべき事件というものがあります。
そこでは、具体的事件の類型化がなされているわけです。
この類型化をする際、法的観点から、個別事案のどの要素をどれだけ重視するかという判断がなされます。
つまり、法的観点から、具体的事実の選別がなされるわけです。
どういう基準でその選別が成されたのかを追体験することが判例勉強のメインとなります。
流相: (へ、へぇ~)
判例をそんな風に勉強したことはないです。
上場: これから、この講座では、“判例の射程”を意識した判例分析をしていきますから、是非ついてきてください。
流相: わかりました!!
阪奈: お願いします。
神渡: お願いいたします。
学説との違い(判例の特徴)
流相: 先ほど、学説の考え方との違いの話が出てきました。受験生は、少なくとも私は、学説と判例の対立が激しい場合に、学説による判例批判が正しいと思ってしまいます。“事案ごとの判断が恣意的”だとか…。
どうも判例には一貫性がないのではないか?と思えるのです。
上場: それは、学説と判例の思考方法の違いに起因するものですね。
先ほども少し言いましたが、学者は様々な事案をうまく説明することができる一般的な理由付け(抽象的な規範・理論)を考えがちです。
対して、裁判官は目前にある事案の妥当な結論をまず考えてその後にその結論を導くのに必要な限度での理由付け(法的構成)に重点をおいて考えているのです。
裁判官と学者の思考方法の違い
神渡: 学者と裁判官では何故そのような思考方法の違いがあるのでしょうか?
上場: いい質問ですね。
簡単に言えば、学者が一般的な理由付けを重視するのは国家権力の恣意的な発動を、理論によって抑制しようという価値判断があるのです。理論を重視する学者による利益考量論批判への反論の文脈において、星野英一先生は、次のようにおっしゃっていました。
“資本主義国家権力に対する批判の立場を常にとらなければ正しい解釈でない、ということを言っているだけのことではないかと思われるのです(星野英一『民法の焦点 part1・総論』(有斐閣リブレ9、1987年)108頁)”。
対して、裁判官(所)は具体的な争訟を妥当に解決するために法を適用する国家作用たる「司法」(憲法第6章)を担う国家機関であるため、訴えられた具体的な争訟(具体的な事案)を解決する権限しか有していないのです。
神渡: 具体的な争訟を妥当に解決することが裁判所の使命だと言うことですね!
ですが、そうなると判例は行き当たりばったりな判断の集まりだということになりませんか?
流相: そうですよね、裁判所はどうやって恣意的な判断を回避しているのですか?
上場: 恣意的な判断回避の仕組みが、「判例の射程」です。
阪奈: しかし、妥当な結論から考えるというのはあまり好ましくないような気がします。「法の支配」ではなく、結局「人の支配」ということになってはいませんか?
上場: そこは難しいですね。
民法学者で、末弘厳太郎という先生がいました。その先生の父が厳太郎先生に次のように話されたそうです。ちなみに、末弘先生の父も法律家だったそうです。
“一体お前などは、法律をむやみに理窟一点張りに考え抜こうとしているけれども、それがそもそも非常に間違っている。おれなどは事件をみると、全く理窟などを考えずに、これは懲役何年とか罰金何円とかいうようなぐあいに、頭の中に自然に裁判が生まれてくる。それにあとから法条や判例学説などを照らし合わせて理窟をつける。するとおれの頭の中に自然に生まれた裁判がちゃんと理窟に合っていることを発見するので、お前らは裁判が三段論法的推理で理窟から生まれるように思っているかもしれないが、そんなことはかけだしの裁判官ならとにかく、われわれは全くそんなことをしない。大学では三段論法風に法律を教えているけれども、あれはああしないと学生にわからないからで、いわば教育の方便、実際の裁判はむしろ、三段論法の逆をゆくのだ・・・・・」(末弘厳太郎『嘘の効用 上』冨山房、1996年 第4刷、286頁)”
人の支配?
阪奈: えっ?
それはまさに「人の支配」ではないですか?
上場: 価値判断が先にあり、理屈が後、というのが裁判所の判断の仕方だ、というのは、熟練した裁判官のほとんどが認めるところです。それが「人の支配」かどうかですが、「人の支配」というのは、価値判断のみで理屈で説明をすることができない判断をくだすことを言います。中世ヨーロッパの裁判などを想像してもらえば分かると思いますが、あの当時の裁判は、裁判官の直観だけで判決をしていたといっても過言ではないのです。理屈ではない…。まさに「人の支配」の典型でした。
阪奈: 先の裁判官の判断の仕方は、価値判断が先にはあるが、その価値判断を理屈で説明する部分があるので「人の支配」ではない、ということですね。
それでも微妙な感じが…。
上場: ですが、実は学説だって同じなんですよ!
あたかも理論から結論が出されているように見せているだけなんです。判断過程は裁判官と全く同じなのです。妥当な結論というものがあって、それをうまく説明しながら、なおかつ国家権力の恣意的発動を防ぐ「理論」なるものを考えているのが学者なのです。国家権力の恣意的発動を「理論」が防ぐためには、その「理論」の妥当範囲は可能な限り広い方が良いのです。
神渡: ですから、学説は、一般的な理由付けを重視するのですね。
そうしますと、「判例の射程」の妥当範囲の理解も学説と判例でだいぶ異なってきますよね?
上場: そうです。学者は一般的な理由付けの観点から「判例の射程」を考えがちであるのに対して、裁判官は事案が同じか否かという観点から「判例の射程」を考えるのです。
流相: ですが、判例にも抽象的な規範がありますよね?民法177条の「第三者」の定義とか。
上場: あります。
もちろん、判例も具体的事案を解決するために抽象的な規範を定立しますから、この点では学説と同じなのです。
しかし、その抽象的な規範は当該具体的事案及びその事案と同じと判断された事案すなわち「重要な事実」(中野次雄編『判例とその読み方』42頁)を同じくする事案にしか及ばないというようにあくまでも事案毎に判断をするという点で判例は、抽象的な規範をすべての事案に適用していく(いきがちな)学説とは異なるのです。
恣意的判断防止の歯止めとしての“判例の射程”
阪奈: “事案毎に判断をする”というのは、なんだか恣意的な判断を防止する歯止めがない気が…。
上場: 「重要な事実」を同じくする事案には同じ判断を下すのです。「重要な事実」を同じくする事案には同じ判断を下す、というのは、憲法14条の平等原則から当然に導かれてきます。
ですから、“事案毎に判断をする”といっても行き当たりばったりの判断ではなく、憲法上の要請に基づく判断になるのです。
理論ではなく、「重要な事実」を同じくする事案であるか否か?まさに「判例の射程」のことですが、そこが判例の生命線ということです。
神渡: 「判例の射程」がどこまで及ぶのか?という議論があることからすると、「重要な事実」を同じくする事案かどうかで判断が分かれてくるということですね?
上場: まさにその通りです。
阪奈: 少し待ってください、裁判官はまず、「判例の射程」を考えるのですか?それとも事案の結論を考えるのですか?
上場: そこは混然一体というのが正確でしょうね。事案の結論を決める際、これまでの先例を無視することは事案解決の不平等をもたらし、まさに事案ごとの恣意的な判断となりますからね。
ですから、結論を考える際には先例とのつながり、つまり「判例の射程」も考慮することになるのです。ある結論が「判例の射程」に照らしても説明がつくならばその結論を判決として下すでしょう。また、ある結論が「判例の射程」に照らして説明することができないならば結論を変えるでしょうし、それでもある結論を維持したい場合は、「判例の射程」はこの事案には及ばない(及ぶ)として「判例の射程」を操作するでしょうね。
阪奈: 「判例の射程」を操作するということはありなのですか?
上場: ありです。
阪奈: そうなるとなんでもありな気が…。
上場: そもそも、「判例の射程」というのは、判決をする裁判官(所)が判決文に書くわけではありません。あくまでもその判決の後の裁判官(所)が先例の「判例の射程」を決めるのです。「判例の射程」を巡り争いが生じるのはそのためなのです。科学的に「判例の射程」はこうです、というのはありません。価値判断をどうしても伴うのが法律学の宿命なのです。
神渡: 平等の観点から、同じ事件は同じに解決することで、そういった解決が積み重なっていくと、裁判所の一般的・抽象的な法的判断基準が見えてきますよね?
上場: はい、まさしくその通りです。そういった裁判所の一般的・抽象的な法的判断基準のことを「判例理論」というのです。学説が言うところの「理論」とはだいぶ違うことに注意してください。「判例理論」は、あくまでも個別具体的な事案に対する判断の積み重ねとして明らかになってくる裁判所の一般的・抽象的な法的判断基準なのです。個別具体的な事案に対する判断の積み重ねを前提としない学説が言うところの「理論」とは全く別物です。ですから、私も学説がいう理論は、単に「理論」と呼び、裁判所の一般的・抽象的な法的判断基準のことは「判例理論」と呼びます。
神渡: その「判例理論」が、個々の事案に対する裁判所の価値判断の積み重ねの結果として表れてくる、そして、その価値判断は、不平等にならないように「重要な事実」を同じくする事案かどうかを考慮して下される、ということは、「判例理論」の背後には、問題となる事案における利益状況においてどちらの利益をどう保護するのが妥当か?という最高裁判所の価値判断が存在するわけですね?
上場: おっしゃるとおりです。
さらに付け加えると、「重要な事実」が同じか異なるのかという判断も、結局は、利益衡量をして結論を導き出す際の、最高裁判所の価値判断の問題に帰着することになります。
流相: えっ?そうなのですか?「重要な事実」が同じかどうかについてまで価値判断の問題となると恣意的な判断を防止する歯止めはないに等しいのではないでしょうか?
上場: 学説サイドからすると当然にそういう批判がなされるでしょうね。
ですが、先ほども少し言及しましたが、「判例の射程」を操作するというのは、つまり、「重要な事実」が同じなのか?異なっているのか?についての価値判断を巡る争いだと言えるわけです。
阪奈: なんだか、何でもありな気がしてきました。結局すべて価値判断だと言っているような気がします。
上場: はっきり言いますと、最終的にはすべて価値判断です。法律学は自然科学とは違います。価値を扱う学問なのです。当然、価値判断を正面から取り扱うことになります。問題は、その価値判断の正当性・妥当性なのです。「判例理論」を分析する際にはそのことを心にとどめておかなければなりません。
流相: 分かりました。裁判官(所)は、「判例の射程」を常に意識しつつ目の前の事案を解決しているのですね。ということは、裁判官(所)は、先例と矛盾する判断はしないように十分に気を付けているのでしょうね。
上場: そういうことになります。
神渡: 先例との関係を常に意識するのが判例の特徴だとすると、「判例理論」を分析するには、これまでの判例の流れをしっかりと押さえる必要があるということですね。
上場: そうです。
「判例理論」の分析については、次の記述が重要です。
“当該判例を孤立して考察するだけでは不十分である。まったく新しい判例は別として-その場合でも関連判例はあるが-多くの事件については判例の流れがあり、その流れと関連させて、はじめて当該判例の当否が判断されうる。(広中俊雄・五十嵐清[編]『法律論文の考え方・書き方』(有斐閣、1983年)50頁)”
連鎖小説の比喩
また、ロナルド・ドゥウォーキンの「連鎖小説」の比喩も分りやすいです。
“連鎖を構成する各々の小説家は、新たな一章を書き加えるために、彼にすでに与えられているそれ以前の諸章を解釈するのであり、彼が新たに書き上げた章は、その後次の小説家が受け取るものに付け加えられる…(ロナルド・ドゥウォーキン『法の帝国』(小林公、未来社、1995年)358頁)”
つまり、ある小説家が、自分が担当する章を書く際、彼に与えられているこれまでに書かれた諸章を解釈します。続き物の小説なのですから、前後に矛盾があってはいけませんので、後の小説家は、これまでの章から解釈される筋に則って新しい章を書かなくてはなりません。そういう意味で、後の小説家は、常に、先行する諸章と矛盾しない範囲で担当の章を書くわけです。もし、後の小説家が書こうとしている内容が先行する諸章と矛盾するのであれば、矛盾しないように内容を変更する必要があります。そして、
“彼はテクストへともう一度立ち返り、テクストによって適格とされうる話の筋道を考え直すことになる。(ドゥウォーキン『法の帝国』362)”
のです。まさに裁判官が判例の射程を検討する際の思考方法です。裁判官は、続き物の小説を書く小説家といえます。常に先行する判例を意識し、先例と矛盾しないように新しい判例を日々紡いでいるのです。
民法の内田貴先生も、教科書でこのドゥウォーキンの連鎖小説の比喩を紹介しています(内田貴『民法I-総則・物権総論[第4版]』(東京大学出版会、1994年)9頁)。
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さて、総論はこれくらいにして、次回からはいよいよ各論に入りましょう。総論を基にして、実際の判例の射程を分析する各論が一番重要です。
刑法から始める予定で、玄人先生が担当されます。
刑法総論の違法性論(総論)2冊がKindleにて電子書籍化されました。
対話形式で分かりやすく、行為無価値論と結果無価値論の対立の根本原因にまで遡って違法性論を分析しております。
付録:刑法勉強のコツ、「山口刑法」理解のポイント