流相: 無意識の共謀はないことから、過失犯の共同正犯は成立しないのでは?
というのが、「過失犯の共同正犯」の成否の議論の出発点なわけですね。
しかし、そう言われるとまさにその通りで、肯定説が成り立つ余地はない気がしてきました・・・
阪奈: そんなことを言ったら肯定説の先生方は怒るわよ~!
玄人: まぁ、怒りはしないがな。
単に”勉強不足だなぁ~”、と思うだけだ。
何故、肯定説が存在するのか?
そのヒントは、先ほど神渡さんが言っていたことと関係する。
流相: えっと、なんだったっけ?阪奈?
阪奈:
”過失犯の本質の議論が絡んでくる”
阪奈: という発言よ!
流相: ということは、
旧過失論VS新過失論
流相: のことかな?
玄人: そうだ。
旧過失論とは何だ?
流相: ”不注意”を重視する過失犯論だと思います。
玄人: 団藤先生は、こうおっしゃっている。
過失責任の中核をなすのは、・・・不注意という要素である。不注意というのは、行為者の意識作用ではなく、無意識的な人格態度である。(団藤重光『刑法綱要総論(第三版)』(創文社、1990年)335頁)
流相: 過失犯の中核が無意識的な部分にあるなら無意識の状態で共謀はできませんからたしかに過失犯の共同正犯否定説になりますね。
では、新過失論からだと逆の結論になるわけですね?
神渡: そうなりそうですね。
玄人: 実は、ことはそう単純ではないんだが、今はとにかく、議論の筋を通すことに力を入れておこう。
新過失論とはどういう考え方だろう?
神渡:
社会生活上の行為準則としての客観的注意義務ないし結果回避義務に違反した「不適切な行為」に過失犯の違法の実質を見出(松原芳博『刑法総論』(日本評論社、2013年)257~258頁)
神渡:す考え方です。
玄人: そうだ。では、
人を野獣と誤認して、甲乙が意思の連絡のもとに、これに向かって発砲した(団藤重光『刑法綱要総論(第三版)』(創文社、1990年)393頁)
玄人:という例でいうと、客観的注意義務違反の「不適切な行為」は何だ?
流相: それは、人かどうかの確認をしっかりせずに、”人に向かって発砲した行為”です。
玄人: そうだな。それが新過失論で問題とする過失行為だ。
で、その過失行為を共謀することはできるか?
流相: それはできます。
先の例では、”人に向かって発砲した行為”自体は意識的な行為なため、その意識的な行為を共謀することは可能だからです。
玄人: 甲乙は、実際には人に発砲しているが、そのことの認識を欠いている故、甲乙の発砲行為は殺人罪にあたらない。
過失犯しか成立しない。
そして、発砲行為自体を共同ですることについて、甲乙は意思の連絡があるわけだ。
だから、発砲行為の共謀が認められるわけだ。
流相: そういうことですから、新過失論からは過失犯の共同正犯が認められるというわけなんですね。
玄人: 一応は。
ここでひとまず、これまでの議論を誰かまとめてくれ。
阪奈: はい、私が。
不注意(な心理状態)に過失犯の本質を求める「旧過失論」からは不注意(な心理状態)を共同することが考えられませんから、過失犯の共同正犯は否定されます。
これに対して、
客観的注意義務違反行為を過失行為と捉える「新過失論」からは、意識的な注意義務違反行為を共謀することは可能ですから、過失犯の共同正犯を肯定することができる。
そういう対応関係があります。
不注意(旧過失論)⇒否定説
義務違反行為(新過失論)⇒肯定説
阪奈:という筋になるかと思います。
流相: そうなるね。
神渡: 分かりやすい議論ですね。
ところで、一つ疑問があります。
旧過失論は不注意という心理状態を過失の本質と考えるわけです。
つまり、旧過失論では、過失の体系的地位は”責任”段階にあるわけです。
しかし、旧過失論からも、過失の実行行為、つまり過失犯の構成要件該当行為というものは考えられないのでしょうか?
流相: それが、過失犯の共同正犯の議論と何か関係するの?
神渡: もし、旧過失論からも構成要件該当行為というものが考えられるのであれば、その構成要件該当行為を共謀する、ということが考えられるようにも思えるのですが・・・
流相: ・・・
あぁ~、まぁそういう気もする・・・
玄人: うん!
良い疑問だ!
過失犯の共同正犯は、過失犯と共同正犯が交錯する場での議論だから、”過失犯の構造”をどう捉えるかと、それにプラスして、”共同正犯の議論の射程”も重要になってくる。
”過失犯の構造”
”共同正犯の議論の射程”
玄人: この2つの議論をしっかり押さえておかないと、過失犯の共同正犯の議論を理解することはできないんだよ。
---次回へ続く---