流相: 「共犯独立性説」は「主観主義刑法理論」を前提とする考えだから、採用することはできない。
「客観主義刑法理論」からは「個人責任原則」に立脚した「共犯の処罰根拠論」をどう導き出すのですか?
玄人: それには、そもそも何故、共犯借受犯説が主張されたのか?を知る必要がある。
阪奈: ”実行行為”を強調しすぎたのだと思います。
玄人: そうなんだ。
”実行行為”をする正犯が処罰され、実行行為をしない者は処罰されない、と考えると「共犯借受犯説」で「共犯の処罰根拠」を議論することになるだろう。
平野先生は、そこを批判した。
その視点が・・・
流相: 「結果無価値論」ですね?
玄人: そう。
「法益」の侵害を重視する「結果無価値論」という視点から「共犯の処罰根拠」を基礎付けたんだ。
具体的には、
「正犯の行為を通じて」結果が発生した場合(平野龍一「刑法 総論Ⅱ」(有斐閣、1975年)345頁)
玄人:と書かれている。
つまり、共犯が処罰されるのは、正犯から可罰性を「借り受ける」からではなく、
”結果を発生させたから”
ということだ!
流相: 「因果的共犯論」ですね?
玄人: そうなる。
しかも、「正犯の行為を通じて」の結果の因果的惹起だ。
平野先生は、
共犯の概念は正犯の行為を概念的に前提とする(平野・前掲345頁)
玄人: その結果、平野先生は、正犯なき共犯を否定するわけだ。
この平野先生の鋭い批判をきっかけに、「客観主義刑法理論」の中での「共犯の処罰根拠論」が大々的に展開されることになる。
何故、”実行行為”をしない共犯が処罰されるのか?
これをめぐって生じた議論が「絶望の章」「暗黒の章」としての「共犯論」の始まりなんだ。
神渡: ・・・
い、今から始まるのですか?
玄人: そうだ。
流相: え~~!
---次回へ続く---