神渡は、
「どこから部屋を綺麗にしようかしら」
と部屋を見渡した。
しかし、手の施しようがない。
「もう、手遅れかも」
ひとまず、入り口から自分が座る場所まで、ゴミを側によせるだけで満足することにした。
そうすると、廊下で足音がして、玄人先生が戻ってきた。
「冷たいお茶で良いかな? 」
と言って、玄人先生は、私にお茶を差し出した。
私は、
「あっ、わざわざすみません。ありがとうございます」
とお礼を言ってお茶を貰った。
お茶を一口飲むと、
「さて、次の質問は何かな? 」
と玄人先生は足を組み直し、右手拳を顎にあてながら聞いてきた。
私は、
「 『『判断枠組』の設定」とは何ですか?」
「何故、必要なのですか?」
と尋ねた。
玄人 :『判断枠組の設定』というのは、『判断枠組』を設定すること 、だよ。まぁ、それでは、何のことやら分からないだろうから、『判断枠組』とは何か?その判断枠組を何故設定する必要があるのか?というように分けて考えてみようか(あ、なるほど、『判断枠組』の設定が何かを調べるには、まず『判断枠組』とは何か?何のために設定するのか? というように言葉を分けて考えれば良いんだと神渡は内心で思った)。
まず、『判断枠組』だけど、これは、どう説明しようかなぁ。うーん、そうだなぁ、じゃ、神渡さんがいいなと思う人が2人いて、 その2人から結婚を申し込まれたと仮定してみよう。神渡さんは、どちらと結婚する?
神渡 :え!?、私そんなにもてませんよ。
2人から結婚を申し込まれるなんて考えられません!
玄人 :いやいや、だから、仮定と言っているわけ。もてる自分を想像してみてよ。法律家になるには、想像力が豊であることも必須能力の1つなんだよ。
神渡 :分かりました。 でも、その2人がどんな人か分からないと判断できません。
玄人 :それはそうだ。
じゃ、AさんBさんとして、
Aさんは、とても金持ちだけど、見た目は全然神渡さんの好みじゃない。
Bさんは、とても貧しいけど、あなた好みのイケメン。
だとしたら、神渡さんは、AB誰を結婚相手に選ぶ?
神渡 :えー。いきなりそんな究極の選択に直面させるんですか?
そうですねェ、結婚となると一生のものですよねェ。結婚した後は当然、生活資金が必要だから、お金がないと困るわけで、 でも、一生顔をつきあわせるわけだから私好みの顔の男性が良いわけで・・・。
う~ん、ABからは選べません。
玄人 :いや、それじゃ、『判断枠組』の説明ができないから、何とか選んでよ。
神渡 :やむを得ません。
それでは、生活資金は私が弁護士になって稼ぎますから Bさんと結婚します。
玄人 :え~!? 自分で選択肢を1つ加えちゃうの?私は、金持ちだがイケメンじゃないAさんとイケメンだが貧乏なBさんの二者択一から選択してと言ったのに・・・。
ま、いいや。
結局、神渡さんは、貧乏でもイケメンのBさんを選んだというわけだ。
神渡 :まぁ、そういうことになりますね。
でも、これはあくまで仮定の話ですからね。そんな対照的な2人から同時に求婚されるなんてありえないんですから。それに、私が結婚相手に求めるのは顔だけじゃないですし、それに・・・(その後も、何やらブツブツと文句を言っている)。
玄人 :それは分かっているよ。身長が高いとか太っていないとかも結婚条件なんだよね!
神渡 :そういうルックスの問題を言っているんじゃありません!!
性格とか、フィーリングとかの内面の問題を言っているんです!
玄人 :いや、すまん、すまん。 冗談だよ。
まぁ、とにかく、この問題では、神渡さんは、結婚条件の1つとしてルックスを求めたわけだ。これは、つまり、神渡さんが結婚を決める際の基準の1つが「自分好みのルックス」であるか、という点にあったことを意味するよね。
神渡 :そうですね。
玄人 :その基準のことが、ここでいう『判断枠組』のことなんだ。
神渡 :ああ、なるほど!
玄人 :では、次に、何故『判断枠組』を設定する必要があるか、を検討しよう。
もし、神渡さんが結婚条件として何も決めなかったらどうなるかな?
神渡 :それは・・・、ABを選べないことになると思います。もし、それでも選べと言われたら、じゃんけんで買った方と結婚するとか、あみだくじで決めるとか、恣意的に決めるしかありませんよね(そもそも、そんな風にして結婚相手は決めませんけど、と私は内心で思った)。
玄人 :そうなるだろうね。
実は、法律で要求される『判断枠組』の設定にも同じことがあてはまるんだよ。
神渡 :え?というと。
玄人 :もし、法的問題について裁判官が勝敗はじゃんけんで決めますとか、くじで決めますと言ったらどうなる?
神渡 :いや、それは、勝ち負けが運で決まることになって暴動が起きるに決まっているじゃないですか?
玄人 :そうだろうね。勝ち負けが運次第の国には安心して済むことが出来ないからね。
人は、同じような条件下では、同じように解決されることを予期している。それが正義の観念の基本だ。人間の抜きがたい本質といっても良いだろう。そうであるのに、運任せの解決がなされると、その正義観念に反する事態が発生するから、国民は安心できないことになる。
それでは、いけないから、適切に紛争を解決するためには、法的な安定性確保が最重要課題となるんだ。『判断枠組』というのは、法的安定性確保のため、つまり、恣意的な解決を避けるために要求されるんだよ。航海の例でいえば、『判断枠組』とは、航海する際の羅針盤といえるね。だから、『判断枠組』を設定するということは、安全な航海のために必要な羅針盤を船に備えるということだ。
神渡 :なるほど!
でも、先生は、講義中に、法律の目的は、具体的妥当性の確保にもあるとおっしゃいましたよね?
玄人 :ああ、言った。
神渡 :それとの関係はどうなるんですか?
法的安定性といえば、画一的解決という冷たいイメージで、具体的妥当性といえば、遠山の金さんのような具体的事情を考慮した心のこもった解決というイメージがあって、両者のベクトルは真逆に思うんですが・・・。
玄人 :これについては、説明に少し時間がかかるから、今日はここまでにしておこう。
次までに、これまでの議論を復習しておいてくれ。
神渡 :わかりました。
今日は、ありがとうございました。
そういって、私は、玄人先生の研究室を(ゴミで足をすべらせないように注意しながら)退出した。
時計をみると、もう夕方の5時30分だった。
講義は1時から2時30分までだったから、3時間も玄人先生とやりとりをしていたことになる。
講義時間の2倍だ。今日で、3コマ分の勉強をしたことになる。
そのことに気づくと、どっと疲れが出てきた。
「今日は早く家に帰ってもう寝よう」
そう決めて、神渡は足早に駅に向かった。