談話室にて。
講義の続きをした。
流相 :鳥獣保護法にいう「捕獲」に捕獲行為を含むのか?カモ捕獲事件ではそのことが問題となったよね。
神渡 :そうだね。
流相 :神渡さんは、捕獲行為は含まれないと解すべきとの主張だね。
神渡 :うん。
流相 :ぼくは、捕獲行為は鳥獣法の立法趣旨(保護法益)から導かれる解釈であるから、捕獲行為を「捕獲」に含めて良いと考えるんだけど・・・。
神渡 :そうすると、捕獲という言葉に対して一般人が持つイメージを逸脱して、国民の予測可能性を害すると私は思うわけ。罪刑法定主義が国民の自由を保障する点にあることからすると、捕獲行為を「捕獲」に含めることは妥当ではないと思うんだけど。
流相 :言葉に対して持つ一般人のイメージは解釈の決め手にはならないと思うんだけどなぁ。
神渡 :でも、言葉に対して持つ一般人のイメージを決め手としないと、法律の専門家が勝手に法律を解釈して国民を恣意的に処罰しているという思いを一般人は持つんじゃないかしら?法律は国民のためにあるのよね?刑法を制定するのも国民の代表者である国会議員なわけだし。
そうであるのに、一般国民が持つイメージを逸脱した解釈をすることが許されるのかしら?
流相 :でも、神渡さんのように考えると、国語辞典の意味の範囲でしか処罰できないということになるのでは?
神渡 :それでいいんじゃないかしら?
処罰の必要性があるのなら立法で対応すれば良いわけだし(そう書いてある本があったし)。
流相 :う~ん。
ぼくとしては、立法での対応では迅速性に欠けるんで、処罰の必要性という観点からは、法律家による解釈で処罰範囲を若干広げることは必要な気がするんだよね。
神渡 :私も、処罰の必要性があることは分かるんだけど、でも法律家が一般人の持つ言葉のイメージを超えた解釈をすることにはやはり抵抗があるわね。
なんだか、立法者の価値判断を法律家が勝手に解釈という名の下に変えているような気がするのよねぇ。
流相 :あ、分かった!
神渡さんは、法律家よりも立法者の価値判断を重視しているんだね。裁判所(法律家)による法創造を否定したモンテスキューの考え方に近いのかも知れない。
逆に、ぼくは、裁判所の法創造を積極的に認める考え方なんだ。英米法系の考え方だね。神渡さんは、大陸法系の考え方に近いと思うよ。
神渡 :そうね。法学概論にもその説明があったわ。玄人先生もそうおっしゃっていたし。
ということは、私と流相さんとでは、立法者の判断を尊重すべきか、法律家の判断も立法者と同じように尊重すべきかという点で根本的な対立があるということになるのかしら?
流相 :そうだと思う。
結局、権力分立の理解について、立法権を信頼する(逆に司法権への不信)と考える(大陸法系)か、司法権を信頼する(逆に立法権への不信)と考える(英米法系)かの違いに行き着くんだろうね。
神渡 :このような立場の違いが法の解釈の仕方に影響するんだね。
権力分立は憲法の問題だと思うけど、憲法の議論が法解釈論に影響し、刑法の基本原理である「罪刑法定主義」の理解にも影響するということが分かったことは凄いよね。
流相君のおかげね。ありがとう!
流相 :(照れながら)いやいや、ぼくも学部で勉強した憲法と罪刑法定主義がつながって良かったよ。神渡さんのおかげだよ。これからも、宜しく!
神渡 :こちらこそ。
じゃ、今日はこれくらいにして帰りましょう。
流相 :(え、一緒に帰ろうと誘っているのかな?)
神渡 :さようなら~。また、明日~。
流相 :(なんだ、そういうことか。だよな、まだ友達になったばかりだもんな)
流相君が何だかがっかりしたような顔をしている。
何かあったのかな?
と思いながら、私は、談話室を出て、学校のキャンパスを横切り、駅に向かった。