神渡 :間接正犯そのもので“原因において自由な行為論”を組み立てることはできますか?
阪奈 :“構成要件モデル”には2つの学説がありました。
1つは、実行行為と実行の着手を同視する説(便宜上、同視説)
2つめは、実行行為と実行の着手を分離する説(便宜上、分離説)
です。
私の理解では、同視説は間接正犯そのもので“原因において自由な行為論”を組み立ているのではないかと思うのです。
流相 :そうなの?
阪奈 :間接正犯というのは、そもそも他人を道具として利用して自己の意図する犯罪を実現する場合です。
原因において自由な行為も、道具として利用されるのが他人ではなく責任能力を失った自分であるという点が違うだけです。
つまり、道具が他人か自分かの違いだけです。
流相 :それは、分離説でも同じではないですか?
阪奈 :そうですが、同視説は、利用行為、つまり原因行為を実行行為かつ実行の着手とみます。その原因行為(実行行為かつ実行の着手時)に、『自己を責任無能力状態に陥らせ、その状態での身体的動静によって一定の犯罪を実現させる現実的危険性が含まれているとき』(大塚仁【刑法概説(総論)第三版】160頁)は、その原因行為を実行行為とみることができるとします。
この説明によると、“原因において自由な行為論”では、原因行為に実行行為性が認められるかだけが問題になると思います。
原因行為が実行行為といえるならば、原因行為時には行為者に責任能力があるので「行為と責任同時存在の原則」にしたがって行為者を処罰することが可能となります。
つまりは、結果行為時に故意があることを要求する必然性はないだろうと思うのです。
実際に、大塚先生は、上記基本書161頁の注(三五)で『責任無能力状態での犯罪意思を独立に考慮する必要はない』とし、かつ『・・・二重の故意を論ずべきではない』とされています。
流相 :あ~、そうなんですね。
神渡 :なるほど、同視説からは、結果行為時に故意を要求する必然性はないということですね。
たしかに、同視説は、原因行為を実行行為かつ実行の着手時期と構成する見解で、原因行為に『自己を責任無能力状態に陥らせ、その状態での身体的動静によって一定の犯罪を実現させる現実的危険性が含まれているとき』に処罰を肯定する見解ですから、原因行為に実行行為性を肯定することができるかだけが関心事項ですよね。
この同視説は原因行為の実行行為性だけを問題とするわけですから、結果行為時の行為者の内心は問題になりませんね。
ですが、同視説では、原因行為をすれば直ちに未遂犯が成立することになりますよね。
たとえば、冒頭の事例【対話】司法試験刑法総論・原因において自由な行為の分析(1)でいきますと、飲酒をしてその後眠り込んでも殺人未遂罪が成立することになるわけですよね。
さすがに、処罰時期が早すぎるこの結論を支持する人は“構成要件モデル”を支持する人の中でも少ないと思います。
ということは、“原因において自由な行為論”を間接正犯そのもので説明することは困難ということかと思うのですが、どうでしょうか?
阪奈 :そういうことになると思います。
そもそも間接正犯は、被利用者が道具として利用されたのであれば、利用者に正犯が成立するという議論です。
その考えを“原因において自由な行為論”にそのまま応用すると、“構成要件モデル”の同視説になりますが、結局同視説では処罰時期が早すぎるため支持者が少ない。
そのため、“原因において自由な行為論”を間接正犯そのもので説明することは困難だ、ということになると思います。
流相 :あの~、すいません。
間接正犯の議論を“原因において自由な行為論”にそのまま応用すると、何故、“構成要件モデル”の同視説になるんですか?
阪奈 :(今、説明したんだけど・・・。まったく何を聞いていたんだか?)
同視説は、原因行為の実行行為性だけを問題にする説です。
つまり、原因行為に、自分を道具として利用する現実的危険性が含まれているかだけを問題にする説で、結果行為時に行為者に故意があったことは要求しません。
間接正犯の議論もそうですよね。被利用者に故意があると通常は間接正犯は成立しませんから、被利用者に故意があることを通常は要求しないはずです。
ですので、間接正犯の議論を“原因において自由な行為論”にそのまま応用すると、“構成要件モデル”の同視説になるのだと思います。
流相 :あ~、そういうことなのですね。
神渡 :たびたび質問ばかりで申し訳ないですが、同じ“構成要件モデル”でも分離説だと結果行為時に故意を要求すると思うのですが、何故でしょうか?
同視説と分離説の何が違うから故意の要否についての違いが生じているのでしょうか?
・・・【対話】司法試験刑法総論・原因において自由な行為の分析(7)へ続く