実行行為論では、構成要件該当行為を判断し、
実行の着手論では、未遂の処罰時期を検討し、
不能犯論では、実行行為(構成要件該当行為)該当性を実質的に検討
します。
団藤先生は、形式的客観説(定型説)の立場からそのすべてを検討しました。
では、その後の学説はどう動いていった?
既遂犯の場合、実行行為該当性は比較的明らかよね。
まぁ、罪刑法定主義の見地から、個別構成要件が予定している実行行為であるのかの議論はあるけども-有体物ではない電気を盗んだ(盗電)事件みたいな-。個別構成要件では罪刑法定主義との関係が主として問題となるかと。
だけど、未遂犯は、原則不可罰の予備罪との関係でとても問題よね。実行の着手が認められれば可罰的だし、否定されれば不可罰。そういう意味で、実行の着手論は、処罰時期を画する重要な役割がある。
だからこそ、実行の着手をどう考えるかが前面に出てくるのね。
もっとも、どれだけ強く連携させるかについても争いがあるんだがな。
だから刑法は嫌なんだ…
あくまでも、実行行為、実行の着手論、不能犯論との相互関係を検討する上で必要な範囲でのみ学説を取り上げる。
その考え方でいくと、実行の着手はどのように考えることになる?
たとえば、
被告人X電気器具店に侵入して、レジのあるたばこ売場に行きかけた際に、被害者Yに見つかったので逮捕免脱意図でYを殴ったという事案(最決昭和40年3月9日)
で考えてみよう。
そこで、Xがレジのあるたばこ売場に行きかけた段階で窃盗の実行の着手があるのかが問題となりました。
では、この事例を危険性で検討するとどうなる?
この事案では、金品窃取目的で電気店に侵入した後、現金を盗むために店内の、レジがあるたばこ売場に行きかけた、という事実が認定されています。
この事実を前提とすると、たばこ売場にはレジがあるのでかなりの確率で現金があったはずです。現金のあるたばこ売場に行きかけた段階で既に現金の占有が侵害される危険性があるといえると思います。
判例も理由は不明だけど、結論的にはその段階で窃盗の実行の着手を肯定しているわね。
なんかたばこ売場に行きかけた段階で窃盗の実行の着手があったというのは窃盗の語感からして認めてはいけないような気がします。
窃盗という言葉からかけ離れているのでは?
切迫した危険といっても、その程度にはかなりの幅がありうる。したがって、これを明確にするためには、形式的ないし時間的な限定が必要である。
と書かれているわ(平野龍一「刑法 総論Ⅱ」(有斐閣、1975年)314頁)。
「構成要件に該当する行為またはこれに密接した行為」であることを要件としているのは、この意味で妥当である
とされているから神渡さんの言う通りかと思う。
ということは、実行の着手時と実行行為の開始時は一致しない。実行行為と実行の着手が切り離されるわけですね。
不能犯論との関係はどうなる?
同じ議論をしている気もするんですが、同じなら実行の着手論で危険性の判断基準を議論すればいいはずで、なぜ不能犯論でも危険性を論じるのか不明。
結局同じ議論をしているのではないか?という疑念を払拭することができないですね。
処罰時期を客観面にかからせる場合、形式的に判断するのか、実質的に法益侵害の危険性で判断するのかの対立があります。実行の着手論ではそこまでの議論しかされていません。
これに対して、不能犯論では、危険性を判断する際の資料-行為者の認識を含むかなど-と危険性を判断する主体と危険性の判断時期-行為時or事後的-に関する議論がされています。
実行の着手論では、実行の着手時期を行為者の主観にかからせるのか、客観面にかからせるのか-形式判断か、危険性という実質判断か-、を議論し、
不能犯論では、その危険性をどう認定していくのか、つまり危険性の認定枠組みを議論していますね。
危険性で実行の着手時期を検討する場合、危険性をどう認定していくのかは当然に問題となりますから、実行の着手時期を危険性で判断する場合、その危険性をどう認定していくのかはワンセットの議論なはずです。
そうであるなら、不能犯の議論は不要で、実行の着手論で危険性をどう認定していくのかの議論もすべきな気がするんですよね。
で、不能犯論は、刑罰が介入するだけの害悪が生じているかを判断するための議論だと考えると、実行の着手論とは別に不能犯論を残す必要がある気がするわ。
つまり、実行の着手論と不能犯論とでは視点が違う気がするのよね。
処罰時期を判断するのに危険性の認定枠組みを議論する必要はないかも。
ということは、実行の着手の判断の際に不能犯論の危険性認定枠組みに従った危険性の認定が不可欠ということだよ。
不能犯論の議論を残してもいいけど、実行の着手論と別に議論をするわけではない。
佐伯先生は、
実行の着手と不能犯の問題は、分けて論じられるのが一般であり、学説の名前も異なっているが、結局のところ、両者は、未遂犯が成立するかどうかという一つの同じ問題が別の角度から論じられているにすぎない(したがって、不能犯が認められる場合には、実行の着手の存在が否定される)。
とされているわね(佐伯仁志「刑法総論の考え方・楽しみ方」(有斐閣、2013年)348頁)。
実行の着手論は、処罰時期を判断するための議論で、
不能犯論は、刑罰が介入するだけの害悪が生じているかを判断するための議論だ、
と考えると、両議論は視点が違うから分けて論じられるのだと思うわ。
ただ、危険性で実行の着手時期を判断する以上は、実行の着手を認めるには危険性の認定(不能犯論でなされる)まで必要だから、結局は未遂犯の成否を検討する際、実行の着手論と不能犯論を論じる必要があるというわけね。
実行の着手論と不能犯論との関係に関しては、近時有力となっている議論がある。
今度はその議論を見ておこう。この有力説を理解すると、実行の着手論と不能犯論との関係がかなりわかるようになる。
---次話へ続く---