流相: じゃあ、「保障人的地位」というのは、刑法上の作為義務を負う人を絞るための議論ということで良いんですね?
玄人: そういうこと!
流相: そうすると、どういう人が「保障人的地位」につくのか、の議論は不真正不作為犯処罰の中心論点になりますね。
阪奈: ということで、早速「保障人的地位」の議論に進みましょう。
流相: 僕としては、基準の明確性確保という観点から、形式的基準によるべきだろうと思います。
たとえば、親であるとか・・・
玄人: そういう考え方はあるな。
形式的犯罪論というわけだ。
神渡: ですが、形式的基準によりますと、逆に処罰範囲が広がりすぎることがあります。
不真正不作為犯では、処罰範囲は限定すべきです。
”作為との等価値性”を確保する必要があります。
流相: あ~、たしかに、その言葉は良く基本書とかに載ってますね。
でも、不真正不作為犯の場合、何故、”作為との等価値性”を確保する必要があるんですか?
阪奈: 今更ぁ~?
玄人: いや、基本的であるが故に重要な問だ!
不真正不作為犯の特徴をちゃんと理解しているか、に関わる。
流相: 真正不作為犯とは違って不作為の明文がない?
玄人: それも不真正不作為犯の特徴の1つだ。
だが、ここでは違う。
不作為犯内部での比較ではなく、作為犯との比較で考えるべき問題だ。
誰か具体例を挙げてみてくれ!
神渡: たとえば、ナイフで人を刺殺する、という作為犯の場合と、
道端で瀕死の重傷を負っている人が倒れていて、通りすがりの人がその人を助けずにそのまま通りすぎた、という不作為犯の場合があります。
玄人: うん、この事例で作為犯と不作為犯の違いを考えてみようか?
何が違う?
流相: 積極的に殺したかどうか?
上手く言えないんですけど・・・
玄人: 難しいかもしれないな。
ヒントとしては、どちらの行為も処罰するとした場合、行為者の自由を制限する度合いが強いのはどちらか?ということなんだが・・・
神渡: ナイフで人を刺す、という自由はないはずです。
しかし、通りすがりの人を(不真正)不作為の殺人罪として処罰すると、その行為者は倒れている人を助けることを刑罰をもって強制されます。
他行為をする自由がたくさんあるのに、その自由が制限されますから不真正不作為犯を処罰することは不作為者の自由を制限する程度が作為犯を処罰する場合よりも強いです。
玄人: そう!そういうことなんだ。
たとえば、島田(聡一郎)先生はこう言っている。
作為犯として処罰される場合には、結果惹起行為の遂行が禁止されるだけで、他にどのような行為に出てもかまわない。しかし、不作為犯として処罰される場合には、特定の積極的行為を行うことが命じられるのであるから、他のあらゆる行為を行うことができなくなってしまう。このように不作為犯として処罰される場合の方が、作為犯として処罰される場合よりも、行動の自由への制約が類型的に大きいと考えられる(島田聡一郎「不作為犯処罰について(一)」立教法学64号(2003年)28~29頁)。
玄人: つまり、不作為犯処罰は、行為選択の自由を作為犯処罰よりも奪う。
それ故に、自由主義原則の観点からその処罰範囲を限定する必要があるんだ。
神渡: 不作為犯処罰を限定するキーワードが、”作為との等価値性”ということなんですね?
玄人: そういうこと!
---次回へ続く---
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