・違法性の意識(の可能性)を故意の要素とするのか(故意説)、
それとも
・違法性の意識の可能性を故意の要素とはせず、責任の要素とするのか(責任説)
にあります。
制限責任説と厳格責任説の違いは、故意の成立に必要な事実の認識をどう考えるのか?にあります。
・違法性阻却事由不存在の認識を要求するのが制限責任説で、
・違法性阻却事由不存在の認識を不要とするのが厳格責任説
ということになります。
それを踏まえたうえで、今度は、
何故、
1:故意説は違法性の意識(の可能性)を故意の要素とし、
2:責任説は違法性の意識(の可能性)を故意の要素とはせず、責任要素とするのか?
そして、
故意説でも、厳格故意説と制限故意説は、
何故、
3:厳格故意説が違法性の意識を故意の要素とし、
4:制限故意説は違法性の意識までは不要で、違法性の意識の可能性で故意を認めるのか?
を検討しよう。
加えて、故意の体系的地位を巡る学説の争いがなぜ生じているのかも検討できるといいだろう。
まずは、1と2だな。
どうだ?流相
故意論や責任論の歴史が重要となる。
自由意思を肯定して、刑罰を自由意思に基づき行われた犯罪への応報と考えた旧派の責任論、つまり自由な意思決定に対する道義的非難を責任とみた道義的責任論
と
犯罪を遺伝と環境によって決定されたものと考え(自由意思の否定)、行為者の危険な性格を改善するために刑罰を科すとの新派の考え方に基づく責任論、つまり危険な性格を有するが故に刑罰を甘受しなければならない地位を責任とみる社会的責任論
の対立がありました。
必ず授業で聞くもの。
何言ってるの?
で、道義的責任論と社会的責任論の対立がどう影響するのかなぁ?
道義的責任論は、自由意思に基づく犯罪行為に対する非難ということが中核になるわけですよね。
分かりやすく言えば、自分で意識的に選んだ犯罪行為に対する非難はとても強くなるはずです。
意識的に選んだというのが「故意」ということになりそうです。
逆に、うっかり犯罪行為をした場合、つまり「過失」への非難は「故意」よりは弱くなるはずです。
そうだとすると、「道義的責任論」からすると「故意犯」と「過失犯」への非難の程度は違ってくることになります。
意図的に選んだのが「故意犯」であるなら、「故意犯」が成立するには意図的な意識が必要ということだね。
つまり、道義的責任論からは「故意犯」が成立するには、悪いことをする意識(違法性の意識)が必要になるということなんだ!
制限故意説は道義的責任論からは導かれない…?
歴史がカギだが…。
誰か分かる者は?
学説を登場年代からみると、
団藤先生の制限故意説
その弟子の大塚先生の厳格故意説
という流れがあります。
団藤先生と大塚先生の時代の違いが重要かと。
学説の歴史を押さえることが重要というのはそういうことなんだ。
学説というのは決して平面上で対立しているのではない。
ここでも、団藤先生がどういう考え方と戦っていたのかを押さえることが必要となる。
団藤先生の時代は、新派と旧派の対立がまだ残っていた時代だった。
団藤先生の師匠は知っているか?
小野先生は旧派の代表論者だった。
その最大のライバルは誰だったか?
歴史的には、新派が敗北し、旧派が勝利した、と言っていい。
団藤先生の師匠の小野先生が勝利したわけだ。
だが、新派がすべてダメで、旧派がすべてにおいて優れていたというわけではない。
学説の闘いはそんな単純なものではない。
団藤先生も旧派側だから旧派が優れていると考えているわけだが、一部新派の社会的責任論の考え方を取り入れているんだ。
どこかわかる人?
団藤先生の骨ともいえる考え方の人格形成責任論が新派の考えを取り入れた部分だ。
新派は責任論で、「社会的責任論」を主張していた。牧野先生もそうだ。
その「社会的責任論」は、責任非難の対象を個々の行為ではなく、行為者の危険な性格を対象としたんだ。なぜなら、「社会的責任論」は行為者が危険な性格を有しているが故に刑罰を科すという考え方で、実際の行為の背後にいる行為者の危険性を重視するからだ。個々の行為は直接は問題とならない。個々の行為はせいぜい、行為者の社会的危険性が外に出てくる出口にすぎない。
「人格形成責任論」からすると、おっと、そうだ、そもそも「人格形成責任論」とは?
これまでの流れを流相、まとめてみろ!
旧派→道義的責任論
新派→社会的責任論
の対立の時代があって、
旧派の道義的責任論が勝利しました。
道義的責任論からは、意識的に選んだ犯罪行為に対する非難が重くなります。つまり意図的な犯罪意図を有する「故意犯」が重く処罰されます。
この道義的責任論から「故意犯」が成立するには、悪いことをする意識(違法性の意識)が必要になると考えるのが素直です。
ただ、団藤先生のように行為に対する非難(行為責任論)を基礎としつつも、行為者の人格形成についてまでも責任非難の対象とする「人格形成責任論」を採用すれば、「故意犯」の成立には、違法性の意識までは不要で、違法性の意識の可能性で足りるということになるのだと思います。
---次話へ続く---