では、責任説の背景はどうなってる?
ヒントは、ここでも責任論の流れだ。
社会的責任論vs道義的責任論
の次ということですよね。
さらにいえば、社会的責任論と道義的責任論の対立の背後にはどういう考え方の違いがあった?
新派から社会的責任論
旧派から道義的責任論
という流れだった。
で、旧派が勝利したことで、責任論においても道義的責任論が勝利した。
その後の犯罪論の大きな流れがどうなっていったか?そこがポイントだ。
そもそも、新派vs旧派の対立時代の旧派は今でいうところの行為無価値論だった。
それが、平野先生の結果無価値論の登場で、今度は争いの主戦場が、旧派内での行為無価値論vs結果無価値論に移ったんだ。
その対立が責任論にも影響している。
奥深い…
もう少し詳しく分析しておくと、
新派⇒教育刑論⇒社会的責任論
旧派⇒応報刑論⇒道義的責任論
という流れだ。
刑法理論としての新派と旧派の対立
が、
刑罰理論としての教育刑論と応報刑論の対立
につながり、
教育刑論から社会的責任論
応報刑論から道義的責任論
が導かれるという流れだ。
旧派の行為無価値論者は応報刑論を採用し、道義的責任論という流れを、
旧派の結果無価値論者はその流れには乗っていないと。
結果無価値論者は刑罰理論をどうかんがえているのか?そこがポイントとなる。
対して、結果無価値論は、法益保護を重視します。法益保護に役立つ限度で刑罰を科すという発想になります。
だから、結果無価値論からは応報刑ではなく、抑止刑論が導かれる。
結果無価値論だって新派・旧派の区別で言うと旧派側なんだから。
旧派は、自由意思を肯定し、自分の意思で犯罪を犯したことに対する非難を前提とするわよ。
そしたら行為無価値論が前提とする道義的責任論と変わらないじゃないか!
山口先生の基本書では、
ここで問われているのは道義的な責任ではなく、犯罪を実行したことに対する、あくまでも法的な責任である。(山口厚『刑法総論(第3版)』(有斐閣、平成28年)196頁)
とされているわ。
同じ「非難」という用語を用いていても、結果無価値論者は、その「非難」から道義的な意味付けを除去しようとしているのね。
結果無価値論者は、刑法から道義的要素を排除しようとしているんだ。
なぜかわかるか?流相。
結果無価値論者の意図は、一定の価値観の押し付けを国家刑罰権の発動から排除することにあります。
多様な価値観を認めなかった戦前の日本から脱却するため、新憲法の価値観、つまり、長谷部恭男先生がおっしゃる「多様な価値観の公平な共存」を実現するため、特定の価値観を排除する必要があります。
そこで、結果無価値論者は法益保護を重視したんです。
国家刑罰権の発動から道義的要素を排除するのが結果無価値論者の主たる意図だ。
だから責任論からも道義的要素を排除する。
とすると、故意の捉え方はどうなる?
だから結果無価値論を重視すれば、責任説になって来る。
いまさら何を言ってるのかしら?すでに検討済みよ。
結果無価値論にはなじめない…
意識しておけば理解の方法が分かって来る。
では、今のとこをまとめてくれ。
新派⇒教育刑論⇒社会的責任論
旧派⇒応報刑論⇒道義的責任論
の対立が、旧派の勝利により、
旧派⇒応報刑論⇒道義的責任論となりましたが、
戦後憲法の下で、旧派は、
行為無価値論vs結果無価値論
の対立時代となりました。旧派側で、国家刑罰権の発動から道義的要素を排除する動き(結果無価値論)が台頭してきました。
そこから、責任論も、
旧派⇒行為無価値論⇒応報刑論⇒道義的責任論⇒故意説
⇒結果無価値論⇒抑止刑論⇒法的責任論⇒責任説
の対立が生じたということです。
---次話へ続く---