どう言っている?
構成要件該当性が充足される切迫した危険が認められれば、手段に着手していなくとも未遂を認めてよいようにも思われる。
とされています(佐伯仁志「刑法総論の考え方・楽しみ方」(有斐閣、2013年)347頁)。
手段を構成要件化した意味ないでしょう?
罪刑法定主義に反する解釈では?
構成要件の各要素は、すべての要素が備わらなければ既遂にならないという意味で等価値であるから、…手段・方法についても、手段への着手を要求するという形で特別視する必要はない
とされています。
意味不明…
構成要件に規定された手段が実行されることは、既遂の要件ではあっても未遂の要件ではない
とされていること(佐伯・前掲書347頁)からすると、手段への着手は、既遂犯が成立するために必要な要件であるから、未遂犯が成立するために手段に着手する必要はない、ということね。
既遂の実行の着手も未遂の実行の着手も同じ議論だろうに。
未遂行為と未遂結果が時間的に乖離する
ことを認めている(松原芳博「刑法総論」(日本評論社、2013年)289頁)。
既遂犯と同じじゃないか?
だけども、危険という結果を必要とする犯罪ということですね。
侵害結果だけ考えていたけど、危険結果という言い方も可能だね。
ともかく、神渡さんが言ったように、未遂犯は、既遂犯から結果だけを引いた構成要件ではない、という理解からは、未遂犯は未遂犯独自の構成要件があるということね。
既遂犯が成立するためには、姦淫手段としての「暴行」「脅迫」に着手することが必要であっても、未遂犯の場合は姦淫される切迫した危険が認められるなら手段たる「暴行」「脅迫」行為に着手していなくても未遂を認めることができる、ということね。
未遂の場合は手段への着手は不要だという理解は立法趣旨に反すると思うんだよね。
未遂犯の構成要件≠既遂犯の構成要件-結果
だということは認めたとしても、だから未遂犯の構成要件は既遂犯とは無関係に解釈してもいいということにはならないんじゃないかな?
手段の限定がある既遂犯の構成要件で、手段の限定を要求した立法趣旨は、未遂犯の構成要件の解釈にも及ぶと考えるべきでしょ!
未遂犯は既遂犯が成立しない場合の処罰拡張事由だけど、既遂犯が成立しない場合に無制限に未遂犯の成立を認めてよいわけじゃない。処罰を拡張するとしても、既遂犯の立法趣旨によって未遂犯の成立範囲の解釈も制限されると解すべきでは?
言われてみるとそうですね。
では、その議論-手段を限定した既遂犯の立法趣旨を未遂犯の解釈に反映させる-を前提にダンプカー事件を検討してみようか。
ダンプカー事件で判例はどういっていた?
被告人が同女をダンプカーの運転席に引きずり込もうとした段階においてすでに強姦に至る客観的な危険性が明らかに認められるから、その時点において強姦行為の着手があつたと解するのが相当
としています。
ダンプカーに引きずり込むときの暴行それ自体は強制性交等の手段としての「暴行」ではないが、その後の強制性交等の手段としての「暴行」に密接に連なる行為であるから、全体として「一連の暴行」の開始が認められ、したがってダンプカーに引きずり込む段階で強制性交等未遂罪が成立すると解するのであろう。
という理解があります(橋爪隆『刑法総論の悩みどころ』(有斐閣、2020年)293頁)。
でも、強姦未遂の成立要件である実行の着手は既遂犯の実行行為である手段への着手と同じだと考えるなら、このダンプカー事件を巡っては、2つの対応が可能だよね。
1つ目は、ダンプカーに引きずり込む段階での暴行は手段としての「暴行」には該当しないからその段階での強姦罪の実行の着手を認めることは無理だ。
2つ目は、ダンプカーに引きずり込む段階での暴行が手段としての「暴行」に該当する。
2つ目の理解は可能かしら?
で、性的自己決定の自由を侵害したかを明確に判断するために手段として「暴行」「脅迫」を構成要件化した。性的自己決定の自由を侵害したといえるには、反抗を著しく困難にすることが必要と考えられているわけだから、反抗を著しく困難にする程度の暴行・脅迫があれば、その暴行・脅迫行為に性的自己決定の自由を侵害して姦淫する客観的危険性が認められるよね。
(おそらく)人通りのない、よって容易に助けを呼ぶこともできない空地を利用して、被告人は被害女性を待ち伏せし、
被害女性を背後から無理やり抱きすくめてダンプカーの助手席前まで連行してきて、
姦淫意図を察知した被害女性が必死に抵抗したにもかかわらず、その抵抗を排する形で被害女性を運転席に無理やり引きずり込んでいます。
ということは、ダンプカーに引きずり込んだ際の暴行行為が被害女性の反抗を著しく困難にする程度であることは間違いないはずです。そうであれば、その暴行行為時点では、人通りのない空地で容易に助けを呼ぶこともできない状況下に被害女性は置かれていたのですから、その暴行行為時点で性的自己決定の自由を侵害して姦淫する客観的危険性が認められる、といえるのではないかな?
かかる事実関係のもとにおいては、
として
被告人が同女をダンプカーの運転席に引きずり込もうとした段階においてすでに強姦に至る客観的な危険性が明らかに認められるから、その時点において強姦行為の着手があつたと解するのが相当
であると判示している。
その事実関係をどういう判断枠組みに照らして上記結論(強姦行為の着手を肯定した)を導いたのかは不明だ。というか、あえて明示していないと捉えるべきだろうな。
だからこの判例を巡っては学説の評価が様々なんだが。
我々は、この判例は、被告人が被害女性をダンプカーに引きずり込んだ際の暴行行為をもって姦淫手段たる「暴行」に該当すると判断した、という解釈をしてみたわけだ。
そうしますと、実行行為(構成要件該当行為)該当性の判断基準として判例は「客観的な危険性」を用いたという理解になりますね。
実行行為該当性と実行の着手論って異なる議論なんですか?
この問題はこれで終わるぞ。
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