---コンコンガチャ---
こっちの返事待たずに勝手に入ってきて失礼します??
失礼すぎる。
社会的法益の中身は個人的法益よりも抽象的だからな。
社会的法益の中身については、大きくA,Bの考え方がある。
A:「個人を超えた価値を保護するものだとする考え方」(平野龍一『刑法概説』(東京大学出版会、1977年)239頁)
B:「社会的法益も、結局は個人的法益に還元すべきもの」(平野・上掲書同頁)
とする考え方だ。
社会的法益を個人的法益に還元すべきとはいっても、個々の個人の法益である個人的法益に社会的法益を完全に還元することはできない。そうしてしまうと、もはや社会的法益で保護すべきものはなくなるからな。
社会的法益を個人的法益に還元するということで言っているのは、社会は多数の個人で成り立っているので、その多数の個人の法益として社会的法益を考えるべきだということだ。
つまり、「社会や社会制度というような超個人的なものではなく、不特定多数の個人を保護」(平野・上掲書同頁)するということだ。
不特定多数の個人といっても、個々の顔のある個人ではないから、結局超個人ということになって社会や社会制度自体を保護するというAの考え方と同じような気がしますが…。
Bからは、公共の危険や公然性が論理必然的に要求されるが、
Aからは、そういったものは論理必然的に要求されない。
不特定多数とはいえ、個人を社会的法益の基礎に置く以上、不特定多数の個人の法益が侵害される危険性というのが必要となるからな。
ところで、法益保護を刑法の機能と捉える結果無価値論からは社会的法益に公共の危険を要求することはわかりますが、刑罰の倫理的非難を強調する行為無価値論だと、公共の危険は不要な気もしますが…?
だが、今の行為無価値論者は、もちろん法益保護も考慮する。
結果無価値論と違うのは、行為無価値論は、法益侵害を”志向”する行為を処罰するという点にある。
われわれは、刑法規範が、法益侵害を志向する行為を禁止するという意味で人々の意思に働きかけ、規制的に機能することによって法益保護を担保するものであることを主張する(福田平『全訂 刑法総論(増補版)』(有斐閣、平成4年)4頁)
だから、行為無価値論者も、社会的法益の解釈において公共の危険を要求する。
---次話へ続く---