払猿: “空知太神社判決”の規範については、色々な人が色々なことを言っていて、まだ定説がないというのが現状でしょうね。
大きく、3つの考えがあると言っていいでしょう。
・事案の性質に着目する見解
・違憲状態の解消に着目する見解
・「目的効果基準」の上位規範に着目する見解
払猿:があります。
ただ、“空知太神社判決”の規範を検討する前に、「目的効果基準」の射程を今一度考えてみる必要があると、私は思います。
阪奈: そうですよね。
そもそも、今までは、“政教分離”といえば当然に「目的効果基準」だったので、「目的効果基準」の射程は考えたことがなかったですが、“空知太神社判決”が出されてからは、「目的効果基準」の射程を検討する必要が出ましたよね。
払猿: そうです。
「目的効果基準」の射程を検討するに当たっては、初めて「目的効果基準」が展開された判例をみてみる必要があります。
流相: 昭和52年7月13日の最高裁判所大法廷判決である、“津地鎮祭事件”ですね
払猿: そうです。
そこでは、最高裁は、何と言っていますか?
まず、最高裁は、「目的効果基準」をどう捉えていますか?
流相: え~と、たしか…
先生、カンニングしても良いですか?
払猿: 試験ではないので、何を見ても良いですよ。
-----スマホに保存しているPDFを見る流相-----
流相: えっと、
当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような・・・
流相:となっています。
アメリカの目的効果基準とは別物になっています。
払猿: アメリカの話は今はわきに置いておきましょう。
ここでの問題は、最高裁がいう「目的効果基準」がどういう文脈で用いられているか?ということです。
流相: “文脈”ですか?
う~ん…
阪奈: まず、津地鎮祭事件では、
元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。
阪奈:として、国家と宗教との完全分離を説いています。
ところが、その直後に、完全分離を貫いたのでは「宗教による差別」が生ずることになりかねない等を理由に、
・・・政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合が、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるを得ないのである。
阪奈:として、完全分離を放棄しています。
そこから、津地鎮祭では、政教分離原則を次のように解釈しました。
・・・政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
阪奈:としました。
払猿: 要約すると、津地鎮祭事件で最高裁は、政教分離原則をどう捉える、と言っていますか?
神渡: 要するに、
国家と宗教とがかかわり合うこと自体は可能だが、ただ、そのかかわり合いが社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を超える場合は、政教分離原則に反する
神渡:と言っているのだと思います。
つまり、相当とされる限度を超えたかどうかの判断基準として「目的効果基準」を用いるという文脈になっています。
阪奈: そうね。
流相: なるほど、そうだね。
払猿: 神渡さんのおっしゃるとおり、そういう文脈になりますね。
ということは、「目的効果基準」の射程もおのずから明らかになりますね!
流相: え?
そうなんですか?
---次回へ続く---